祈望(きぼう)



 いつからか、聴こえなくなった、よく透る、高い声。
 それにも関わらず、毎日は変化なく続く。
 まるで、何の変事もなかったかのように過ごす。そんな環境に染まりきっている自分に嫌気がさす。
 自分を慕う、あの子がいれば、それでも少しはマシでいられたのに。


「久しぶり」
 気配をさせずに入ってきた藍方(あいかた)に、(りょう)は顔をあげず、片手をあげて応える。
「何、難しい顔して」
 眉をひそめる藍方に読んでいた紙束を渡し、良はお茶を入れに立ち上がる。
「……ぁあ、調査書取ったんだ」
 藍方は床に座り込み、受け取った紙束に目を通す。
 良からお茶の入ったマグカップを受け取り、藍方は眉間のしわをもみほぐす。
「賛成に一票」
 盛大なため息を伴った言葉に良は苦笑する。
「全くね。こんな厄介な相手だとは思わなかったよ、さすがに」
 跡継ぎ問題が出たくらいだから、ある程度上位の家柄だと推測はしていたが。
「予想できるか。三家の人間なんて」
 名門中の名門。出来れば近づきたくない、ある意味鬼門でもある。
 藍方はため息をつきながら続ける。
「でも、まぁ……なんとか接触できそうか?」
 調査書に書かれた現状をみると、『家』には関わらずに、本人のみに会えないこともなさそうだ。
「一筋縄じゃいかないことに変わりないけどな」
 良は苦く呟く。
 それでも、約束を果たすためには接触しないわけにはいかない。
「どうせなら、敵にまわしたくないな」
 接触が幸と出るかどうか。関係者であるが故に、個を捨てている可能性も高く、状況としては五分五分。
「とりあえず、追加調査とるよ。伝言は届けないわけにはいかないから」
 例え、どういう結果になるとしても果たさなければならない約束。
 さきに、進むためにも。


「見つからないなぁ」
 相手がよく出没し、尚且つ接触が目立たない場所、ということで人相風体のよろしくない人間が闊歩する界隈に網を張って三日。
 肝心の探し人には出会えないまま。
 ちょっかいをかけてくる輩には事欠かないので退屈する暇はないが、それを相手にするのにも飽きてきた藍方は煙草に火をつけため息をつく。
「バレてるのかねぇ、探してるの」
「別に心当たりなきゃ、逃げる必要ないだろ。できれば休み中に片付けたいなぁ」
 同じく飽きている良は疲れたようにぼやく。
 時間的制約もあるのだ。まとめて取れる休みは早々なく、この休みを逃すとしばらくは細切れの時間しか取れない。そうなれば、すれ違う可能性も高く、非効率だ。
「いざとなったら家に行くとか」
 もちろん実家の方ではなく、出先の方だ。
 藍方の提案に良は渋い顔をする。
「同居人がいなければ、そうしたいけどな」
 現在、探し人は実家から手配されたマンションにはほとんど戻らず、友人の家に居候している状態だ。
 その友人に接触を知られたくない。その友人自身がどうというわけではないが、属する『家』に問題がある。
「わかってる。ちょっと言ってみただけ」
 面倒に絡まった状況。少しでも踏み外せば、最悪の事態に転がりかねない。いとも簡単に。
「でも、やっぱり日頃の行いはしておくものだな、と」
 表情をゆるませる藍方の視線の先を追い、良も笑む。
 待ち人来たれり。


 家を出た。
 二つ三つの条件を科せられ、完全な自由ではないにしろそれを許されたのは、やはり日頃の行いの賜物だ。
 抵抗も反抗もせず、おとなしくにこにこ微笑んでやり過ごした甲斐があった。
 ろくな監視もなしに外に出られるというのは、反旗を翻すはずがないと高を括られているおかげだ。
 くもった目で、信じたいことだけを信じていればいい。
 その間が、自分に与えられた猶予期間。
 しかし、それでも結局、立場や、今後の動向に障りが出るのを避けるため、猫はかぶり続ける必要がある。
 当然たまっていく憂さは、晴らさなければ精神衛生上よろしくない。
 そうして思いついたストレス解消法。
 自分の、人畜無害な外見をおとりにし、犯罪特区を散策する。餌にくらいつく魚のごとく襲ってくる金銭目的の柄の悪い男たちがかかるのを待ち。
 正当防衛の名のもとに、表沙汰に成り得ないのをいいことに返り討つ。
 足下に転がった男たちを見おろす。
 力量の差を見極められずに襲ってくるほうが悪いのだ。自業自得。同情の余地なし。たまっていた鬱憤を少し晴らさせてくれたことに、少々感謝はしておこう。
「はじめまして、シトウ」
 踵を返そうとしたところに声をかけられ、歩を止める。
 全く気配を感じさせずに、いつの間にかすぐそばに佇む、同年代と思しき二人の少年。
 敵意は認められず、しかし名を知っていることに警戒をする。
 記憶違いでなければ……口を開こうとした直前、それを封じるように言葉が発せられる。
「伝言を、届けにきた」
 やわらかな声音で続けられたやさしい想いに、胸が痛む。
 もう、なにも返せない。


「さすがに、もういないな」
 花どころか、蕾も葉もない、寒々しい姿の桜の樹の下に寂しげな声が溶ける。
「……掘る?」
 気遣わしげな声に、首を横に振る。
「止めておく。ここのが綺麗だし」
 きっと、桜が咲けば見事だろうとシトウは樹を見上げる。
「外そうか?」
 藍方のどこまでもやさしい声に、シトウは振り返る。
「大丈夫。……それより、お酒あけよう。翊吏(よくり)、好きだったから」
 懐かしげなシトウの微笑みをうけて、良は小さな四つの杯に、清め酒をそそぐ。
 余ったひとつの杯を、受け取る手は、もう現れなかった。


 どこにもいない。二度と、戻らない。
 あるのはただの抜け殻。そして残された言葉。
 それと同じ言葉を、そっくり返したかった。
 大事だった。一緒にいきたかった。
 守ることはおろか、きちんと伝えることも出来なかった自分にため息をこぼす。
 残された言葉を伝える以上のことは語らず、彼らは立ち去った。
 こちらの素性も、あちら側の素性もお互いわかっていたにも関わらず、それには触れずに、ただ悼んでくれていた。心から。
 敵に、回らなければいいとは思う。回りたくないとも。そう願う程度には好意を抱いた。
 だからといって、一時の感情で動くわけにはいかない。まだ、中心も見えていない状況では動きようがない。
 もう、誤らずに一番を優先するのと決めたのだから。
 願いより、ずっと固く。

【終】




Jan. 2000
【トキノカサネ】