懐痕(かいこん)



「私は、出会えて良かったです。……巻き込まれた(にん)はいい迷惑だったと思いますけど。一人だったら、きっと逃げられなかった」
 偶然の再会。
 すっかりと大人びたその姿は、しかし年齢不相応な憂いを有し、それがひどく痛々しい。
「本当に?」
 少女はうなずくだろう。
 それをわかっている、紛れもない大人である自分が、尋ねるべきではなかった。でも、聞かずにはいられなかった。
 自分の安直な行動により、深い傷痕を残すことになった少女は、静かに微笑った。
「また、お会いできてうれしいです」


 ■ ■ ■


 最初は、迷子か? と思っただけだった。
 休日のデパートは結構な人混みで、そんな中、その子どもは一人で静かに立っていた。
 保護者らしき人物の姿は見えず、しかし少女からは不安げな様子どころか、何の感情もみえなかった。
 それが奥底にうずめた記憶を引っ掻く。
「……迷子かしら」
 不思議そうに呟く夕紀奈(ゆきな)の声に曖昧にうなずく。
 どちらかというと、言いつけを守って親を待っているといった風情だ。
 しかし、四歳程度の子どもが言われたからといって、そうそう大人しくしているだろうか。それ以前に、嫌な事件が多い世の中で、親が幼い子どもを放置しているというのは問題だろう。
「迷子センターに連れていった方が良いかな?」
 何故か、放っておけない気がした。どうしようかと夕紀奈と顔を見合わせる。
「忍?」
 自分と手をつないでいた息子が、するりと抜けて少女に駆け寄る。
「泣かないで? ぼくが、いるよ?」
 涙をこぼしてさえいない少女に、忍はまっすぐに伝える。
 普段、見ず知らずの人に、自ら話しかけたりしない忍が、その少女には何のためらいもなく近付いた。そして少女の、妙に目を惹く佇まい。
 わかって、しまった。
 顔をあげ、周囲に視線をはしらせ、見つけた。冷然とした無感情な瞳。
 当たっていても何もうれしくない予想が、完全な答えとして突きつけられる。
「夕紀奈」
 忍の傍らに立った妻に声をかける。
「なあに?」
「忍と、その子つれて屋上に行ってて」
 唐突な言葉にも関わらず、夕紀奈はあっさりうなずく。
「うん。じゃ、先に行ってるね?」
 すべて言わずにいても、受け入れてくれる器の広さに、いつも救われる。
 子ども二人をうながし、手をつないで歩く後姿を見送り、目的の人物に近付く。
「お久しぶりです、姉上」
 会ったことがあるのは数度。そのほとんどは御簾越しで、単に気配を感じただけといった方が正しい。
 はじめてまともに顔を合わせたのは五年前。
 本来であれば、一生『家』から出るはずのない人が移住をゆるされたこと自体が破格だ。
 どのような経緯があってのことか、知らない。
 確かなのは、この姉が実子である忍を捨てたということ。
 義務だけで結婚し、子をもうけ、それが不要であれば躊躇わず切り捨てた。
 そして『必要』である、先ほどの少女は……。
「変わりないようね。あなたは。まだ、あの化物を連れているの?」
 感情を含まない硬質な声。
 そう。それが当然であるよう教育されてきた。自分も、同様に。
「姉上も、お変わりなく」
 化物との物言いは聞かなかったことにして、礼をとる。
「見たい顔ではないわ」
 淡々とした口調で、まっすぐ目を見て話す。
 冷たいながら、魅きこまれそうになる吸引力。
 『教育』を受けた者の、しかし、それだけでは身につかない『血』の力。
 飲みこまれないよう、注意をしながら話を続ける。
「先ほどの御子の『対子(ついし)』は御一緒ではないのですか?」
 『詠菜(えいな)』の直系は双児で生まれる。お互いを半身として。
 その半身を持たずに生まれた忍が化物と呼ばれるのは、ある意味仕方のないとも言える。ありえないはずのことなのだ。
「いないわ」
 静かな一言が、ぞっとするような微笑みと一緒にもれる。
「それ、は」
 忍と同様、半身を持たなかったということか。それとも。
「男は必要ないもの。……あれも欲しかったようだけれど、あれは私のものだもの。私が教育するの」
 無邪気にも見える笑み。
 道具として扱われる子ども。
 姉も自分も同様に育ってきている。身に染み付いている。それを、繰り返す。
「あれは、渡せないわよ? 化物とは違うもの。あれは『銀女』なのだから」
 目を細めて笑う。奇妙な危うさ。
「名を呼ばないのは、私の前だからですか?」
 気になり、尋ねる。
 情報を漏らさないため、ということは考えられる。自分がいくら死んだことになっている人間で、漏洩する先を持たないとはいえ、注意を払って払いすぎるということもない。
 ただ、それならば銀女という単語を出すことも控えるはずなのだ。
 姉は愉しそうに微笑う。
「名前? 必要かしら。そこに居るだけのものに」
 実際、姉自身も称号で呼ばれることがほとんどで、名を出されることは少なかっただろう。
 しかし、それとは全く別の、明確な悪意がみえた。
「姉上。彼女を一日貸してください」
 姉の意に沿うよう、あえて物のように少女を扱う。
「……いいわ。明日の夜、返しにきなさい」
 意図を追及されることなく済み、その姿が見えなくなってから大きく息を吐いた。


 屋上広場のベンチで、少女を真ん中にして並んで座る姿を見つけ、目を細める。
 普通に、親子のようにみえる。
「名前は? 僕は、(めぐみ)
 しゃがんで、少女と目線をあわせて尋ねる。
 あわい黒色の瞳が静かに見返す。
「りゅうき」
「りゅうき。今日は僕の家に泊まりにおいで? ちゃんとりゅうきのお母さんには話してあるから」
 自分から言い出したこととはいえ、躊躇いなく頷かれ、危惧を抱く。
 警戒心がなさすぎる。
 知らない人にはついていかない、というのはごくあたりまえに教えられるはずだ。
 この少女においては尚更だ。それだけの価値ある存在。
「恵くん?」
 心配そうに見つめる夕紀奈に、安心させるように微笑む。
「よかったね。りゅーき。行こ」
 忍がりゅうきの手を引き、子ども向けの遊び場に足を向ける。
「あの子、一日あずかることにしたから」
 なんの説明にもなっていない事後承諾。
「聞いても良いのかな?」
 二人が遊ぶ姿を目で追いながら夕紀奈が控えめに尋ねる。
「……りゅうきは、忍の妹だよ。さっきのはおれの姉」
 つまり、あれが忍の生みの母親だ。
 忍を引き取ったときにも、それさえ夕紀奈には説明していなかった。関わることで起こりうる弊害が怖くて。それでも、受け入れてくれるやさしさに甘えて。
「そう。似てるね、やっぱり。会えて、うれしいよ」
 出会った時から変わらない、やわらかな微笑。
 救われる。
「明日は、どこに行こうか」
 束の間でも、できるだけ良い想い出を残してあげたい。
 そんな思いが裏目に出るなどと、考えもしなかった。


「忍ちゃん、あんまり遠くに行っちゃだめよ。りゅうきちゃんも一緒なんだからね」
 お弁当を食べ終え、森へ行こうとする二人に、夕紀奈は静かに注意をする。
「はぁい。りゅーき、行くよ」
 忍が手を引く。
 はにかむように微笑って、少女は忍のあとをついていく。
 これから重責を担うことになる。
 小さな二人のうしろ姿が遠ざかっていくのを芝の上に座って見つめる。
 このまま二人を、引き離さないでいられたら良いのに。出来るはずもないことを望む。
「仲良しね。二人とも」
 気遣うような声。見透かされていることが嬉しい。
「心配かけてゴメンな、夕紀奈」
「気にしないで。良い天気ね」
 芝生の上に寝転がり、夕紀奈は空に手をのばす。
 どこまでも広がる、青く、高い空。


「りゅーき、ころぶなよ」
 手をつないだまま、二歩分先に歩く忍は少し振り返り声をかける。
「ころばない……っわぁ」
 言いかえしたりゅうきは、湿った枯葉に足をとられバランスを崩す。
「ぅわっ……りゅーきぃ、ころぶなよって今言ったのに」
 一緒になって転びかけた忍は、なんとか体勢を保つ。
「ごめん」
 顔を見合わせてくすくす笑う。二人で。
 ずっと近しい存在。いちばんではないけれど。


 薄暗い森の中、またたくように舞う無数の蝶。
「にん、ちゃん」
 つないだ手に力がこもる。おびえたような固い声。
 綺麗、なのかもしれない。
 だけど、怖い。
 それらが顔よりずっと大きいから、というだけではなく、ひどく禍々しい気配をもっていた。
「……りゅーき、逃げるよ」
 忍は足の震えを無理やり押さえつけ、りゅうきをうながす。
 腕にしがみついた流希は、下を向いて震えている。
 足元には、二人の足よりも大きな蟻が何匹も近づいてきている。
 狙いは、りゅうきだ。
 根拠など何もなく、忍はそれを解る。
 誰だって、欲しがる存在。
「目、つぶってて良いよ。僕が、守るから。だから、走って。……行くよ?」
 忍は応えを待たずにりゅうきの腕を引っ張って走り出す。
 背後に迫りくる巨大な虫の恐怖を振り切るように。ただ、それしか出来ない自分に苛立ちながら。


 一目で様子がおかしいとわかった。
 駆けこむようにして戻ってきた二人を抱きとめる。
 怯えるりゅうきを強く抱きしめる傍らで、夕紀奈が忍を優しく抱き、その背をなでているのが目に入る。
 何があったか、定かにはわからない。ただ、逃げ切ったこと。忍がりゅうきを守ろうとしたことだけは確かだ。
「二人とも、良く頑張った」
 まだ、身体を固くしたまま震えているりゅうきの頬に触れる。
 無事で良かった。
「もう大丈夫。こわくないよ。……恵くん、帰ろう」
 夕紀奈の言葉に頷き、りゅうきを抱き上げる。
 完全に自分のミスだ。
 静寂を飲み込んだかのように、何も変化ない様子の森を睨む。
 仕掛けられることくらい、考慮に入れておくべきだった。
 自分の甘さに怒りを覚えながら、踵をかえした。


 ハンドルに突っ伏しながら声を聞く。
 幼い、固い決意。
「強く、なるから。りゅうき。……こんど、会うときまでに」
 痛々しい言葉。
 その覚悟に、なにが出来るだろう。
 逃亡者であるがゆえ、傍観者にしかなれない自分に。
 日が沈み、気温の下がった秋の風が車内に吹き込む。小さな気配が車に乗り込む気配に顔をあげる。
 ミラー越しに目が合うとりゅうきは小さく呟く。
「ごめん、なさい」
 その謝罪のもつ意味に、すぐに言葉が出ず、静かに車を走らせる。
 謝る必要など、どこにもないのに。でも、それを言ってもきっと納得はしないだろう。
 謝るべきは自分にある。
 りゅうきの家に着き、車を止める。
 立ち並ぶ、他の家々と何等変わりなく見えるこの家で、どう成長していくのだろう。
「ごめんね、りゅうき。結局、辛い思いをさせた」
 向き合ったりゅうきは、その言葉に首を振る。何でも見透かすような目がこちらをまっすぐに見る。
「ありがとう、ございました」
 たどたどしい口調に、大人びた表情。
「おれのほうが、ありがとう」
 玄関まで送ろうとすると、りゅうきはその横をすりぬける。
「ひとりで、だいじょうぶ。です」
 小さなその背中を追うことはせずに声をかける。
「また、会おうね」
 ふりむかないまま、それでも小さくうなずいたように見えた。


 ■ ■ ■


 剣を抜く音が聞こえた気がした。
 意思という名のもとに貫かれる強い力。
 唐突な再会。
 空白の十余年に、お互い色々なものを犠牲にし、なくした。
 それがどれほど、少女に影響を与えただろう。
 彼女に与えられた名に、流れる(のぞ)みという意味を持つことを知ったから尚更。
 望みを消し去るという呪いをかけられた子ども。
「お久しぶりです。恵さん」
 凶つものを祓った少女は、こちらを振り返り頭を下げる。感情を見せない淡々とした表情が垣間見える。
「久しぶり、流希(りゅうき)
 言葉は力を持つ。
 生まれたときにかけられ、紡がれ続けたはずの名前。
「あまり会いたくなかった、って顔してる」
 感情の乏しい静かな表情に微笑いかけると、流希は困ったように目を伏せる。
「いえ。……ただ、可能性が、高くなるので」
 危惧はわからないでもない。できるだけ巻き込みたくないという、その気持ちも。
 かわらず、まっすぐ、やさしいままで育ったことがうれしくて、不憫に思う。
「それは流希が気にすることじゃないよ。大丈夫。流希は『希みを(つた)える』ものだろう?」
 別の(まじな)いを与える。
 これで背負うものが軽くなるなどとは思えないけれど。
 少女の細い肩をそっと抱き寄せる。
「……恵、さん?」
 訝しげな表情でこちらを見つめる。
「ちゃんと、泣いてるか? 感情を押し殺すことは美徳じゃないんだよ?」
 耳元でささやく。
 押し殺し続けた感情は、必ず自身を蝕む。
 統べるものとして、揺れを人に見せるのは致命的であっても、吐きだす場所は必要だ。
「大丈夫です」
 しっかりと、つよく微笑う。
「ムリ、しすぎるなよ?」
 無理をしなければ、生き抜けない。それでも、できれば。
 頷く、その表情に抱えているものを見出すことはできないまま、つい口にする。
「後悔してないか? あの時、おれに会ったことを」
 流希は少し驚いたような顔をして、そして首をゆっくり横に振った。


 短い再会。
 細い、後姿を既視感を覚えて見送った。
 祈る。
 神にではなく。
 まだ再会できぬ子ども達が、幸せであれるように。
 自分の罪を隠して。
 ものわかりの良い、傍観者のフリをして。

【終】




Jan. 2000
【トキノカサネ】