Discretion



 逃げるが勝ち。
 三十六計逃げるに如かず。
 とにかく、走る。
 正確には、逃げる。
「三十、六計って、なんだっけ?」
 無駄なことに気をとられ、つまずきかける。
 転んだら、捕まる。
 余計なことは頭から振り払い、走る速度をあげた。


 既視感を覚える。よくよくこういう場面に出くわす気がする。
 幸運にも、だろうと岑羅(しんら)は小さく息を吐く。
透亜(とうあ)は鬼ごっこが好きだねぇ」
 走ってきた少女を捕まえ、のんびりと声をかける。
「好きじゃないよっ」
 乱れた息を整えながら力いっぱい否定する透亜の頭をあやすようにたたきながら、岑羅は空いた手でライターに火をつける。
「『炎嘗』」
 強まる炎に微笑んでライターを放る。
 かん、と地に触れると同時に炎は柱となり、見えざるものを包み込み、燃やし尽くすと、痕跡を残さず消える。
 岑羅はしゃがみこみ、火の消えたライターを拾う。
「上出来、上出来」
 自画自賛している岑羅に透亜は疑問を口にする。
「岑羅ぁ。三十六計って何だっけ?」
「は?」
 唐突な問いに岑羅は呆れをかくさずふり返る。
 化け物に追われていたわりに、ずいぶん余裕な思考回路だ。逃避行動だろうか。
「帰ったら、辞書でも引けば?」
 岑羅は苦笑いして応えた。


「ところでさぁ。いつになったら『術』の使い方教えてくれるの?」
 三十六計について調べ終わったらしい透亜は厚い辞書を閉じて聞く。
 仕事を始めて数ヶ月。透亜のやっている仕事といえば、整理整頓、事務全般。
 事務仕事は嫌いではないが、WALKに入ったのは、化け物に対抗する『術』を覚えたいからなので、これでは何のために居るのかわからない。
 催促しても、岑羅はその度のらりくらりとかわすばかりで、透亜の状態は入社当時と何一つ変わらないままだ。
「そのうちねー」
 透亜の追及をかわすように、岑羅は窓の外を眺める。
「いっつも、そればっかり。あのさ、逃げることしか出来ないの、疲れるし、すごく腹たつんだよ」
 苛立つ透亜の気持ちは、岑羅にもわかる。
 初めはきちんと教えるつもりだったのだ。ただ、だんだんと迷いが大きくなっていくのだ。
 存外、自分は慈善家だったらしいと、岑羅は軽くため息をつく。
「んー。前向きに善処します。っていうところでどうかな?」
「なに、政治家みたいなこと言ってるの?」
 それってやらないと同義語じゃないの? などとぶつぶつ言いながら透亜はにっこり笑った。
「期待して、信じて、待ってるからね?」


「もしもし?」
 電話を受けても何も声を発しない相手に呼びかけると、苦笑が受話器をつたって耳に届く。
「なに、シン。情けない声だして」
「ちょっと愚痴りたい気分なだけだ。ほっとけよ」
 十も年下の少年に、あっけなく心情を見透かされて岑羅はやさぐれてみせる。
「いいけど。なに? 彼女のことで悩んでるの?」
「語弊がある。手ぇ、出してるみたいだろ、それじゃ」
 わざとやっていたらしい少年は笑みまじりの声を返す。
「はいはい。(みなと)透亜さんだっけ?」
 以前に一度話した名前をしっかり覚えていた少年に、岑羅は頷きを返す。
「そう。……それで、最近気がついたんだけど俺って、実は慈善家さんだったんだよ」
「それ、ほんとの慈善家がいたら怒られるぞ。シンは読みが甘いだけ。せめてお人よしくらいで留めろよ、自分で言うのは」
 しみじみと岑羅が言うと、呆れをかくさない口調で返される。
「冗談だよ」
「どーだか」
 付き合いが長い分、年齢差は関係なく、言葉に遠慮はなくなる。
 少年の冗談めかした口調が静かなものに変わり、続く。
「深刻に悩むこと、ないんじゃないか? 結局どっちを選んでも後悔はするだろうし」
 術を教えても、教えなくても。
 力は諸刃で、手に入れれば危険も隣り合わせになる。だからといって与えなければ、身を守るすべなく逃げ続けることになる。
「だったら、彼女の希望にそってもいいんじゃないか? その先、悩むのはおれたちに許された権利じゃないんだし」
 苦いものを吐き出すような声。
 口ではそういっていても、納得しきれないのだろう。
 無関係な者を巻き込む可能性に対して。
「どっちにしろ、透亜は大きな術は使えないだろうしな」
 現在の状態では、気休め程度の退魔術をおぼえるのがせいぜいだろう。
 それくらいなら、大きな危険はないはずだ。
 希望的観測を含んだ結論を出し、岑羅は深々とため息をつく。
「問題は、教えるのが面倒だってことだよな」
「シンって……そういうヤツだよな、結局」
 岑羅の漏らした本音に、少年は諦めたように呟くと、「切るぞ」と続ける。
「ありがとな」
 礼をすべりこませる。
「ばーか」
 一人で結論付けるのがつらかった、というのも見破られていたらしい。
 やさしい声と同時に、通話は切られた。


「出来た? 出来たよね?」
 無邪気に喜ぶ透亜に、岑羅は複雑な気分をかくして笑みをみせる。
「上出来」
 本来、攻撃に向かない力を持った透亜に、一番簡単な『滅呪』を教え始めて約一月。なんとか術として成立するようになった。
 これで、気分だけでも透亜が楽になればいいとは思う。
「岑羅。ありがと。……あのね。私は大丈夫だよ?」
 前置きも何もないまま告げる透亜に、岑羅は苦笑する。
 こちらの迷いなど、見透かされていたのだ。全部、はっきりとではなくとも。
 ひと回りも年下の女の子に完敗した気分で、岑羅は笑った。
「期待してますよ」

【終】




Jan. 2000
【トキノカサネ】