COME ACROSS



 静かな音をたてて冷たい雨が地をぬらす。
 比較的早い時間にも関わらず、夕方を思わせるような鈍く重い色の空。
「こんな日は、あったかい家の中でお茶と読書三昧とかが良いよな」
 仕事も片付き、のんびりした気分で歩きながら帰宅後の予定を立てる。
 しかし何が起こるかわからない世の中、予定通りに進むことばかりではない。
 幸か、不幸か。


 細かい雨のせいで視界が悪いなか、不審な気配に目を細める。
 わざわざ目を凝らすまでもなく見えるのは、こちらに向かって走る少女。
 傘もささず、雨に濡れるまま、必死の形相で走る少女は、何かを確認するかのようにたびたびふり返る。
 背後にいるのは『鬼』の形をしたもの。目を凝らさないと見辛いそれが少女を追いかけている。
 小さく息を吐く。
 前を見ずに走り続けた結果、つっこむようにぶつかってきた少女を片手で抱きとめる。
「随分ハードな鬼ごっこだね?」
 のんびりと声をかけると少女はびっくりしたように顔をあげた。
「とりあえず休憩できそうだよ」
 その言葉に、おそるおそる後ろを振り返った少女は安堵の息を吐く。
 『鬼』の姿はない。
「うちの事務所、すぐそばなんだ。よかったら、少し休んでいかない?」
 我ながら胡散臭いとは思いながらも、放っておくのは寝覚めが悪いので、そんな風に誘う。
 幸い少女は不審を抱かなかったようで、小さくうなずいて見せた。


「あの奥がシャワー室。これ使ってね」
 ずぶぬれの少女に、タオルと着替えをわたす。
「お借りします」
 丁寧に頭を下げて、少女はシャワー室に入っていった。
――――。
「じゃ、落ち着いたところで自己紹介。(あくた)岑羅(しんら)です。この探偵社の社長……まぁ、他に社員はいないんだけどね」
 マグカップになみなみとついだ紅茶を渡していうと、少女はお礼を言って一口飲む。
(みなと)透亜(とうあ)です。清真女学園中等部の二年です……さっきはありがとうございました」
 少女にぺこんと頭を下げられ、岑羅は苦笑いする。
「いいえ。っていうか、実際には何もやってないんだよね、俺は」
「え? じゃあ」
 『鬼』が消えたのはなんだったのだろう、と透亜は戸惑ったように岑羅を見る。
「んー。湊さんはああいうの良く見るの?」
「良く、ではないです。でも、今日がはじめてでもないです」
 話をそらされたにも関わらず、透亜はまじめに答える。
「そっか。あのね、実はさっきの『鬼』みたいなものは結構いる。見えない人のほうが大多数だけど。そして、見えるということは力があるということ。奴らはその力を欲しがる。だから湊さんは追いかけられる」
 滔滔と語る岑羅の言葉を透亜は複雑な面持ちで聞く。
「でも、芥さんも見えるんですよね。芥さんは追いかけられないんですか?」
 『鬼』は岑羅の姿を見て消えたようにもみえた。
 岑羅はかるく笑う。
「俺は対処法を知ってるから。それを活かして探偵屋なんてやってるんだけどね」
 胸ポケットから名刺サイズの銀のプレートを出し、透亜に渡す。
 掻き傷のような模様が描かれたそれを透亜は眺める。
「なんですか、これ」
「『魔物』よけ。持っていれば魔物は近づけないという優れもの。さっき『鬼』がいなくなったのもこれがあったから。あげるよ」
「いいんですか? ……ありがとうございます」
 銀のプレートを両手で包むように握り締め、透亜は深々と頭を下げた。


「こんにちは」
 翌日、借りた服の返却のため、透亜は《WALK》とプレートのついたドアを細く開ける。
「いらっしゃーい」
 返事はあるが、ドアから見える範囲に岑羅の姿はない。
 一歩、中に入るとドアの陰になる位置で、床に座った岑羅が透亜に小さく手を振る。その周囲にはファイルが散乱している。
「昨日はありがとうございました。これ、少しですけど食べてください」
 地震でもあったかのような散らかり具合に、どうやったらこんなことになるのだろうかと疑問に思いつつ、口からはお礼の言葉をだす。
 ファイルを踏まないように立ち上がった岑羅は服の入った袋と、ケーキの箱を受け取り笑う。
「気を使わなくて良かったのに。ありがとう。時間あるなら、一緒に食べない?」
 岑羅の誘いに透亜は喜んでうなずいた。


 ケーキを食べ終わり、紅茶のおかわりをいれてもらい、透亜はまったりとしあわせな気分に浸る。
 昨日も思ったが、紅茶がすごく美味しい。淹れ方のコツでも聞こうかと口を開きかけ、固まる。
 事務所の窓がふくらんではじけた。
「うわ。サイアク。ガラス、高いのに」
 透亜にガラス片がかからないよう庇いながらも、岑羅は情けなくぼやく。
 ガラスのふぶきが収まったところで岑羅は風通しの良くなった窓を眺める。
 『魔物』が相手じゃ、修理代を請求することもできない。
「まったく」
 ついた溜息は透亜の絶叫によってかき消された。
 透亜に目を向けると、黒いひも状の靄が全身にまき付いている。
「最悪」
 力ある器を求める、実体をもたない『魔物』。
「ま、俺が魔物なら同じことするしな」
 力を内在する身体は、それだけで器に適している。本人に自覚がなければ、御しやすい分なおさら。
 そう考えると透亜の身体は最適なのだ。今まで無事でいられたことは奇跡といってもいいだろう。
 岑羅はライターを取り出し、火をつける。
「『炎、浄めよ。命ず』」
 ライターの炎が、蒼く変わる。
 それを見て、岑羅は少し微笑むと、ライターを透亜のほうへ放り投げた。


 蒼炎に包まれ、透亜は呆然と立ち尽くす。
 熱くはない。
 燃えている音もない。ただ、身体に巻きついた黒い靄が耳障りな音をたてるだけ。
 しばらくすると靄は消滅し、炎も小さくなる。
 岑羅は透亜に近寄り、おちているライターを拾い上げると火を消す。
「大丈夫? 意識、とんじゃってるみたいだけど」
 やさしく声をかけられ、透亜は糸が切れたようにへたり込む。
「なん、で? あのプレート、持ってたのに」
 自問とも質問とも取れるような呟きに岑羅は傍らにしゃがみこむ。
「『魔物』って湊さんみたいに力を持っていて、自覚のない人が大好きなんだよねー」
「……全然、答えになってませんけど」
 少し気持ちが落ち着いてきた透亜は眉をひそめて呟く。
 岑羅はごまかすように笑みを浮かべる。
「あのプレートで防げるのって弱いやつだけなんだよねぇ。今回のヤツはあのプレートには少し荷が重かったみたい」
「って、もしここじゃない場所で襲われたらっ」
 魔物に襲われたのとは別のショックをうけ、透亜は語調を強める。
 信用して安心しきっていた分、裏切られたような気持ちがふつふつとわきあがる。
「起こらなかったから、いいんじゃない?」
 そんな透亜を意に介した風もなく、無責任なことを岑羅は口にする。
 実際、赤の他人である透亜に対して責任はない。
 そのことを指摘すると透亜は黙り込む。
 確かにそのとおりなのだ。ただの通りすがり以上の厚意を示してもらっている。だから勘違いしてしまった。助けてくれると。
 透亜は応じる言葉が見つからないまま唇を噛む。
 その様子を見て岑羅はいたずらっぽい表情で下を向いた透亜を覗き込む。
「で、ものは相談なんだけど。湊さん、良かったらうちで働かない? そうすれば『力』の使い方も教えられるし」
「私、中学生ですけど」
 申し出は非常にうれしい。今は一人暮らしなので、親にとやかく言われる心配もない。
 が、まずいのではないだろうか。労働基準法とか。
「湊さんさえ構わなければ良いよ。どうせ褒められない行為もしてるしねぇ」
 今更ひとつふたつ増えても大したことはない、と岑羅は問題がある発言をする。
 透亜は束の間考える。
 不法行為はあまりよろしくない。しかし、今日みたいなことが何度もあったら、文字通り身がもたない。つまり答えは簡単だ。
「よろしくお願いします」
 後悔先立たずとばかりに透亜はいう。
 岑羅は片手を差し出して微笑みを浮かべた。
「こちらこそ」

【終】




Jan. 2000
【トキノカサネ】