その建物は小高い丘の上にぽつんと建っていた。
門札の文字は長年の風雨にさらされて既に判別不可能になっているが、門扉にくくりつけられた『無断侵入厳禁』の札の方はかろうじて判読できた。しかし、その門扉もずいぶん古く壊れかけていて、人の立ち入りを防ぐ役目を果たしていない。
実際、複数の人間が出入している形跡が残っていた。
三階建ての古びた鉄筋コンクリートの建屋をもう一度見上げて、ため息をひとつ。
「こういうのは、さっさと壊すに限るんだけどなぁ」
今更言っても仕方ないことだというのは百も承知でこぼして、岑羅は先人に倣って門扉の隙間に身体をくぐらせた。
依頼は至ってシンプルだった。
廃屋に出る幽霊の排除。
周囲に民家があるわけでもないのだから、幽霊の一つや二つ放置しておけば良いと思うのだが、そうもいかないらしい。
発端は敷地内に入り込んだ廃墟マニアが撮影をしていたところ、妙なものを見たとか、映ったとか、それがネット上に流れて、その情報でオカルトマニアや肝試し感覚で入り込む輩も増え、嘘かホントか判らないが、幽霊に襲われたとか祟られたとか。
そこが元病院だったっていうのもウワサに拍車をかけたようだ。
面白おかしくおどろおどろしい怪談がまことしやかに広がったらしい。
そしてそのうち怪我人が出た。
実際にその怪我が幽霊の仕業かどうかは全くの謎だったが、安全を考え、現地を封鎖に行った関係者も火の玉のようなものを見て、逃げ帰った上、その後出社拒否。さすがに放置しておくわけにはいかなくなり、お金をかけ、専門家に頼む気になったようだ。
渡された資料等を確認しての判断は限りなく白に近いグレー。
幽霊がいないとは言わないが、性質の悪いものではなく、更地にでもしてしまえば問題なし。
幾ばくかの相談料をいただいて終了、のはずだった。
その旨を依頼主に伝えたところ、それでもやはり現地を見て欲しいと懇願され、提示金額も悪くなく……
足を踏み入れたとたん、景色は一変した。
ガラスはあちこち破れ、廃墟としか言いようのなかったはずの建物は、多少古びた感じはあるものの、きちんと手入れをされた様子で、廃れた感じは微塵もなくなった。
雑草が生い茂るだけだった前庭は、芝生の敷きつめられた整った庭に。
そして、そこで元気に遊ぶ子どもたち。
鬼ごっこや、ボール遊び、木陰でおままごと。
嫌になるほど平穏な光景。
「……やっぱり、断るべきだったな」
もう、なくなってしまったものたち。
幽霊と言うには儚すぎて、純粋すぎる想い。
それでも、見てしまったからにはこのままにはしておけない。
ポケットから出したライターをつける。
「『浄』」
岑羅がやわらかく揺れる炎にそっと息を吹きかけると、夕暮れの空に、ふわふわと小さな灯りがいくつも舞う。
「ホタルだー」
遊んでいた子どもの一人がそれを見つけ、歓喜の声を上げる。
他の子どもたちも、その声につられて光に群がる。
それを横目に見ながら庭を突っ切り、岑羅はきれいに見える廃墟の扉を開いた。
何度かまばたきをして、視界を調整する。
手入れされているように見えていた建物内が、本来の状況を現す。
明かりのつかない薄暗い廊下。
割れたガラスの破片が床に散らばる。
岑羅は懐中電灯がわりにライターに火をつける。
「中は静かだな」
少々ほっとする。
幽霊なんかは見慣れているし、それを消滅させることに抵抗もない。
それでも、無邪気な幼い存在を見れば気が滅入る。
今更、どうしようもないことがわかっていても。わかっているからこそ。
小児病院だから、ある程度は覚悟してきてはいたけれど。
「さっさと回って、さっさと片付けて、さっさと帰ろう」
余計な考えを振り切るように声に出すと、足を速めた。
一階端から順番に、各部屋をのぞきながら最上階である四階まで、幸いにも何者にも出会わず上がって来られたことに、安堵の息を吐く。
「さて、あとひとつ。頼むから、出てくれるなよ」
屋上に続く階段をのぼり、錆付いてぎしぎしと大きな音をたてるドアを開ける。
「せんせいっ?」
屋上のフェンスに身体を預けていた少女がふり返った。
陽は落ちてしまったものの、外はまだ暗くなりきってはいなく、岑羅はライターの火を消しながら、わからないようにため息をこぼす。
最後の最後に大当たりだ。
満面の笑顔が、こちらを確認した瞬間、あからさまにがっかりした表情に変わったのがわかり苦笑する。
そうそう願いは叶わない。
「ごめんね。待ち人じゃなくて」
「誰?」
不審そうな声。
中学生だろう。
夏らしい涼しげなワンピースがふわりと風に揺れる。
「んー、通りすがり」
「……どうやったら、こんなとこ通りすがるの? お見舞いに来た人?」
少女の口調があきれたようなものに変わる。
「病院だから、煙草はダメだよ? 屋上でもね」
先ほど、ライターを持っていたのを見て勘違いしてくれたらしい。
都合がいいので、そのまま話を合わせる。
「バレちゃしょーがないな。我慢するよ。ナイショにしといて。……で、キミは? こんなところで待ち合わせ?」
少女はふいとフェンスの向こう側を見る。
岑羅はその隣にならんで、視線の先を追う。
高台にあるため、見晴らしがいい。
まばらにある民家の灯りの向こうに、くらく沈んだ海が見える。
「あそこの海岸でね、毎年、花火をあげるの。ここ、特等席なの」
ぽつぽつと少女は話す。どこかさみしそうに。
「だからね、約束したの。先生と。最初は渋ってたけど、体調良かったらね、って言ってくれたから、がんばったのに。……まだ、来てくれない」
「先生のこと、好きだったんだ?」
「うん。やさしくて、でもちょっとぼんやりしてるとこもあって、寝癖つけたままで師長さんに怒られたりもしてて、大人なのに、なんか可愛かった。しんどい時も笑ってもらえるとちょっと楽になった。……先生にとっては患者の一人に過ぎないってわかってたけど」
大人びた自嘲的な笑み。
「それでも、約束したから。先生、約束破ったりしたことないから」
だから、ずっと待ち続けていたのだろう。
こんなさみしいところで、ひとり。
花火が上がるのは一年にたった一日しかないのに、きっと三百六十五日、毎日。
けなげで、純粋でいたましい。
「良いもの、見せてあげるよ」
岑羅はポケットに突っ込んだライターを再び取り出す。
やわらかな音をたてて燃える炎を少女に見せる。
その火を右手で握りこむ。
「えっ、なに?! 熱くないの?」
唐突な行動に驚いたのか、少女は慌てたように手をのばす。
「だいじょーぶ。見てて」
火の消えたライターを取りあえず足下に置き、握りこんでいた火を上に放り投げる。
小さな火の玉がまっすぐに上にとぶ。
適当な高さまであがったところで手を打つ。
ぱん。
乾いた音と同時に火球ははじけ花火のように広がる。
「え、すごい。なに? 手品?」
ちいさな子どもみたいに、目をかがやかせて手の中をのぞきこんでくる。
「も一回、見る?」
少女は大きく頷く。
もう一度、火をつけ右手に握りこむ。
「何色が良い?」
「うそ。好きな色ができるの? じゃ、青!」
無邪気に喜ぶ少女から少し目を逸らせて、大きく火球を放り、手をたたく。
青い火花がまるく散る。
「すっごーい。もう一回! ピンクで!」
「了解」
同じことをもう一度繰り返す。
何度も。少女が飽きるまで。
「――すごかったー。ありがとう! ホントにすごいね、おにーさん。……ごめんなさい、何回も。つかれた?」
案じる少女に静かに微笑ってみせる。
「全然。気にいってもらえて良かった」
「……もう、行っちゃうの?」
ライターをしまい、遠くを見る姿に何か感じたのか、少女はすがりつくように見上げる。
「そうだね。そろそろね。……キミは?」
「私、もう良いかな? 待ってなくて。先生、来た時に、私いないと。約束したのに」
一人で待つのは長くて、それでも入れ違いに来る可能性も捨てきれず、囚われ続ける少女。
それを解放する為に言う。
「良いよ。遅刻した先生見つけたら、俺が良く言っておくよ。キミがどれだけ長いあいだ待っていたか」
自分は立ち去るし、先生は来ることはないけれど、それでもその言葉に少女はほっとしたように笑う。
「ありがとう」
伸び放題の草を踏み分けて門に向かう。
庭で遊んでいた子どもたちの姿はもはやなく、少女も空に消えた。
蛍に似た光が行き場をなくしたようにふわふわとただよう庭をそっとあとにした。
「おかえり」
事務所のドアをあけるとごく当たりまえに慣れ親しんだ少年の声。
「……ただいま。来てたのか」
「合宿の帰りに寄ったんだけど……へこんでるの?」
色素の薄い瞳にまっすぐに見つめられ岑羅は微笑う。
「おまえのせいだ」
「なに、その言いがかり」
以前の自分なら、もう少し事務的に片付けられた。
良くも、悪くも。
こんなやるせない気持ちを持つことなんてなかったはずだ。
出会わなければ、重ねてみることもなかった。
あの少女と同じ年頃の忍と。
「忍のせいだし。……まぁ、忍のおかげってことにしておいても良い」
「お茶、入れるよ」
忍はそれ以上追求することなく立ち上がる。
自分よりずっと年下の子どもの許容に、岑羅は静かに息を吐いた。
Aug. 2012
【トキノカサネ】